満州引揚者:林 恭子:『縁と運」:01 私の「よろこびのうた」
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満州引揚者:林 恭子:『縁と運」:01 私の「よろこびのうた」
85歳の母親が書く、満州引揚者の半生
・母親が出版した「縁と運」の概略
2013/8/1 初版
朝日新聞の読者投稿欄の「ひととき」と「声」に投稿し、掲載された70編を「縁と運」と題して出版した。
本には、林恭子の生き方や思いが人生の縮図として描かれている。
本の題名は、読者がこの本に出会であろう「縁」と、読んでみようとページを開いてくれる「運」から命名した。
・母親の略歴
東京で生まれた。
父が大型バイク「ハーレーダビッドソン」社の奉天(現・瀋陽)支店長だった。
このため3歳から一家で奉天へ移り住んだ。
戦後、14歳で旧満州から引き揚げ、16歳で結婚し、手作りで焼いたパン店を開業。
・この本の問い合わせ
絶版につき受付終了
この本に関しては、私、林 宏(息子)に問い合わせて頂きたい。
連絡先(090・6613・4068)へ。
01 私の「よろこびのうた」「1979年47歳」
今年は春から、その日を待ち続けていた12月16日が来て、私はベートーベンの第九「合唱」を歌いました。
一番前の列に並ばせてもらったので、あとから「まあ、あなたコーラスやっていたの」と言われましたが、私は楽譜も読めず、声も出ません。
でも、この歌だけはぜひと願って第九のための安城市民合唱に参加したのです。
むずかしさに不安を抱きながら、まずドイツ語の辞書をひいて歌詞を覚え、メロディも、まわりの人たちについて、少しずつ歌えるようになりました。
が、長く長くのばしところは、どうしてもわかりません。
隣の若い女性に「ここ、いくつのばすの」ときくと、「おばさん、体で覚えなくっちゃ」。
なるほどそうだと思いました。
最後まで心を痛めたのが、高い音が出ないことでした。
合唱指導の伊藤先生が「声が出なくても、歌う気持ちが表れれば。。。」と言われたのを、
どんなにうれしく、心強く思ったかもしれません。
だんだん仕上がってきて、ひとつもまちがえずに歌えた時は、思わず涙が出ました。
どうしてこの歌に、問いますと、私が女学校へ入学した終戦の年のこと、
ところは旧満州の奉天、たちまちあたりは物騒になり、私たち日本人は閉ざした建物の中で、じっと息をひそめておりました。
しかしその年の暮れには、こわされた校舎の片隅で、ひそかに授業が行われていました。
戦争に負けた国の子供たちが身を寄せあって、先生から口移しで習ったのが、この「よろこびのうた」でした。
あれから34年、今生きてることのよろこびを精一杯歌い上げました。